宵闇バニラバー

作:早川ふう / 所要時間 10分

利用規約はこちら。 少しでも楽しんでいただければ幸いです。2018.11.06.


あの夏は、と思い出す話ではあるのだが、
季節的には秋になっていたはずの日だった。
最高気温が30度を超え、
「夏が戻ってきた」と皆が口を揃えて言っては苦笑いをして、
残っていた制汗スプレーや汗拭きシートが大活躍。
大多数の人にとっては【残暑が厳しい秋の日】で、
そこまで記憶に残るというほどではない普通の日だった。
まあ、ここまでもったいぶるのだから当然、
僕にとっては、忘れられない日なのだけれど。



その日、僕は久しぶりに田舎を訪れていた。
駅に着いた瞬間から、何もかもが懐かしい。
バスに揺られ、バス停から坂をのぼって、ようやく辿り着く、祖父母の古い家。
出迎えてくれた二人は小さくなっていて、時の流れを感じたけれど、
それでもゆっくりと時間が流れているようなこの家独特の空気を吸って、
やっと、呼吸ができた気がしたんだ。

チリン、チリンチリン。

風鈴に、もうひとつ鈴の音が重なった。
振り向くと、一匹の猫が、悠々と廊下を歩いている。

「ばあちゃん、猫飼ってるの?」

「いんや、首輪さしてるけんど、どこの猫だがわっがんねぇんだ」

「ふぅん」

自分と同じ来訪者であるはずの猫は、
和室の座布団に我が物顔で座ると、欠伸をした。
この猫はよく来るのだろうか。
祖母に訊いてみると、どうやら、いつも夕飯を食べた後に出ていくらしい。
いったいどこから来て、どこへ行っているのだろうか。

綺麗、とか、可愛い、などという感想もない、ごくごく普通の猫に、
興味がわいたわけではなかった。
しかし、妙に気になった。
もしかしたら嫉妬心からだったのかもしれない。

僕は、この特別な場所を誰かとシェアする気はさらさらなかった。
しかし、この招かれざる客が、この家に受け入れられているという事実は、
僕にはどうしようもないのだけれど、それでもどうにかしたかった。



夕飯をちゃっかり一緒に囲んだ後、その猫はしばらく毛づくろいをしていた。
僕はアイスを食べながらそれを眺めていた。
ふいに、ぴくっとひげが動いて、猫はこちらを見た。
目が合った。表情は、読めない。

猫はゆっくりとのびをして、のっそのっそと歩き、縁側から家の外に出て行った。
祖父に、散歩してくると告げ、僕は、猫の鈴の音を追いかけた。
こっちの道は海に繋がっているはずだ。民家はない。
次はどこに行くつもりなのだろう。
猫はどんどん足早に進んでいく。

「あれ?」

気が付くと、音が消えていた。
猫はどこに行ったのだろう。
見失ってしまったのだろうか。
それともどこかに丸まって動いていないだけだろうか。
このまま諦めて帰るのも癪(しゃく)だった。
溶けかけたアイスを一気に頬張ってしまうと、僕はゆっくりと、砂浜を歩いた。



「いた……けど……」

猫は、ガス灯の下にいた。
明かりを吸って、身体が白く光り、目が蒼く輝いている。
それはまるでこの世のものではないような、不思議な美しさがあった。
さっきまで可愛いとすら思わなかったのに。
今は、美しいと感じるなんて。
いや、それだけじゃない。不気味さも、感じる。
危険かもしれないとさえ思った。
それなのに、その姿から目が離せない。

僕はホラー映画が好きだ。
怖い話もよく読むし、不思議体験のひとつやふたつ、
是非してみたかったはずだった。
でも、今はとても楽しむどころではない。

「君のような子を、仲間にしたかったんだ」

耳元で声がした。
猫が喋ったと思った。
猫はガス灯の下にいるし、少し離れているし、
百歩譲って声が聞こえたとしても、耳元で聞こえるはずなんかないのに、
というかむしろあの猫は人の言葉を話せるのか、
もしかしてこれは、物語によくある死亡フラグというやつではないのか。

猫の口元が歪んだ。
嗤(わら)っている。
逃げなければと思ったが、身体は動かなかった。
感覚がひどく鈍い。
さっき頬張ったアイスのように、身体が溶けかけているのだろうか。
なんだこれは。
鈴虫が百匹コーラスしているかのような耳鳴り。
五月蠅くてたまらない。
……嫌だ。……僕は……まだ死にたくない。



「残念。君は仲間にできないみたい」

ふっと身体が楽になった。
急に足が動いて倒れてしまいそうになるのを必死に堪え、
とりあえずしゃがむ。
猫はこちらに歩いてくるとぽんっと僕の右手に左前足を乗せた。

「アタリを持ってるなんて、羨ましいことだ」

握りしめていたアイスの棒の「アタリ」の文字が光った。
これが、羨ましいのか?
これがあったから?
僕は助かる、のか?

「さようなら、また逢う日まで」

猫は闇に消えていった。
足音も鈴の音もしなかったから、本当に「消えた」んだと思った。
僕は急いで家に帰って、ばあちゃんに小言をもらいながら、麦茶をがぶ飲みした。

「ばあちゃん、アイスの棒、あたりだった」

「えがったねぇ」

「うん」

次の日、お店でもう一本アイスをもらったとき、
お店の人が、この時間にいつも来る猫が今日は来ないと言っていた。
お昼ご飯はこの店で食べていたのだろう。
その日の夜、祖父母の家にも、猫はあらわれなかった。
その日以来、姿を見せなくなったらしい。



今でも街で似たような猫を見かけるたびに、身体が強張る。
どうしてもあの体験は忘れることはできない。
お化けなんかより人間の方が怖いよって、よく言うけれど、
本当に異質なものに出逢う恐怖に比べたら、
人間の怖さなんてたかが知れてるって。絶対そうだって。
とまぁ、なかなか図太く生きられるようになったのは、
あの猫に感謝するべきところなのかもしれない。
でも、ペットとして猫を飼う気には、今でもなれないけれど。





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