作:早川ふう / 所要時間 5分

利用規約はこちら。 少しでも楽しんでいただければ幸いです。2018.10.27.


幸せが、逃げていく気がした。

遅く起きた朝、
出窓を開けると、湿気交じりの風が吹いて、カーテンが花瓶を倒してしまった。
零れた水を拭こうとした時、窓の桟(さん)の端に見つけたのは、
失くしたと思っていたイヤリングの片割れ。
元カレと喧嘩別れしたあの夜に、投げ捨てるように外したものだった。

これは、付き合って初めての誕生日に貰ったものだった。
ピアスの穴を開けていない私の為に、
可愛いイヤリングを探してプレゼントしてくれた、その気持ちがとても嬉しかったっけ。

当時の私は、彼との結婚を夢見て、ただひたすら尽くしていた。
彼の家でごはんを作り、掃除や洗濯をする。
仕事以外の日は、彼の家で、彼の為に時間を使えることが幸せで、
独りではないことに喜びを感じ、生きがいすらも感じていたのだと思う。
彼が「ただいま」と言って、私が「おかえり」と言う。
彼の家だったから、それは当たり前だったのだけれど。
その彼の声を聴くことができるのは私だけだ、という
変な優越感に浸って、お金も時間も愛情も、
すべてを搾取されていることに、私は長い間気づかずにいた。

付き合って一年の記念日に、指輪が欲しいとねだったけれど、彼は買ってくれなかった。
「いつもありがとう。これからもずっと一緒に、時間を刻んでいこう」
プロポーズのような台詞と一緒にもらったのは、腕時計。
指輪ではなかったけれど、私はとても喜んだ。
今なら、それはただ口がうまいだけだったとわかる。
けれど過去の馬鹿な私は、世界一の幸せ者だと思っていたのだ。

あの喧嘩のきっかけは、私がモーニングコールを忘れたことだ。
ただ、私は忘れてなんかいない。
彼が寝る前に充電するのを忘れて、朝、携帯が繋がらなかった。
もちろんアラームも鳴らなくて、結果彼は遅刻。
大きな契約を結ぶ大事な商談に遅れて、契約はうまくいかず、
彼の査定は最低評価、ボーナスも出ないことになり、彼は荒れた。

「お前のせいだ!」と殴られて、やっと目が覚めた。
腕を掴まれ、引っ張りまわされ、
貰った時計のベルトも千切れたおかげで、縁も切れたのだと思う。

家に帰る途中、涙は止まらなかった。
思い出すのは怒り狂っていた先ほどの表情ではなく、優しい彼の笑顔だった。
いい人だった。付き合っていた時間は、本当に楽しかった。
だから、もしかしたら、こうなったのは私が悪かったのではないだろうか。
いくら家事ができても、いくら美味しい料理が作れても、
誰かと幸せに暮らすなんて、私には無理だった、
むしろ許されていなかったんじゃないかとまで思った。
ただ、こうやってうじうじしている性格が一番いけないのかなとも思って。
じゃあどう考えればいいのかなって。

そして私は、考えるのをやめた。
思考回路が絡まりすぎて、苦しくて仕方がなかった。
家に辿りつくと、着替えもしないで冷たいベッドにダイブして、
枕に顔を埋めてうわーーっと叫んだ。
化粧していた顔も、枕カバーもぐちゃぐちゃになった。

何度言っても、靴下を脱ぎっぱなしにするし、
エアコンの温度だって、21度のままだった。
食卓の醤油を使ったあとに元に戻さないような、そんなしょうもないことが、
愛しかった、好きだった、とても、好きだった。
でも、もうこの恋は終わりなんだと思うと、
悲しくてやるせなくて、布団をばたばた蹴ったし、枕を叩いた。
その時、外れたイヤリングが目に入り、感情のままに窓辺に向かって投げたんだ。

……思い出していると、水がどんどん桟に向かって流れ、イヤリングが濡れた。
あの幸せを逃がしてはいけなかったのかもしれないと、後悔した日もあった。
幸せが逃げるから、と、溜息をできるだけ吐かないようにしていたけれど、
これはきっと、失っていいものだった。
あの幸せという名で縛られていた重い鎖が音を立てて外れたような。
まさに、呪縛から解放されたような、そんな気がした。
確かに私は捕らわれていたのだろう。


静かに、溜息を吐いて、私は寝室を振り返った。
扉は閉じられている。
けれどあの向こうで、規則正しい寝息をたてて、
今付き合っている彼が、寝ている。

今の彼は、ぼろぼろだった私を救ってくれて、ずっと支えてくれた友達だった。
付き合うようになっても、恋愛が怖くて、友達に戻りたいと泣いたこともある。
そんな私を、今まで待っていてくれた。
そして、 まさに昨日、プロポーズをしてくれた……。

今なら応えられるだろう。
今、心から、
こんな人とはもう会えないかもしれないと思えるから。








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