逢魔時の黒猫 〜手纏の端無きが如し氷面鏡〜

作:早川ふう / 所要時間 100分 / 比率 2:2

利用規約はこちら。 少しでも楽しんでいただければ幸いです。2020.9.29.
屁理屈な氷面鏡をボイスドラマ化するお話をいただいた際の脚本がベースとなったものです。屁理屈〜とは別作品とお考えください。
長いので、第一幕と第二幕で区切ってありますが、区切らず上演して構いません。
副題は【たまきのはしなきがごとし ひもかがみ】と読みます。



【登場人物紹介】

永元幸雄(黒猫弐)
  設定上、高校生以上の未成年。静と國郎の息子で、靖子の孫。
  自分が生きている意味がわからない。
  死を望み、黒猫の計らいで自らも黒猫となった。
  便宜上、第二幕では、黒猫弐と表記。
  幼少期、小学生、中学生、今、と年齢が変わるので、
  声劇の場合、幼少期のみ靖子役の人が兼ねてもいいかもしれません。

永元 静
  靖子の娘で、幸雄の母親。國郎は元夫。
  心が弱く、自己を否定する言葉には過剰防衛気味。
 
永元靖子
  幸雄の祖母で、靖子の母。
  口が悪く、素直ではない。本人は無自覚。

辻本國郎
  幸雄の父親で、静は元妻。
  静の情緒不安定さに嫌気がさし、長年浮気相手との二重生活をしている。

黒猫
  黒猫。『』の台詞は動物の姿での台詞。
  特定の状況下で、人間の姿となり、人と会話することができる。
  飄々としていてつかみ所がない。

少女
  受験が嫌になってしょんぼりしているモブキャラ。



【配役表】


幸雄/黒猫弐・・・
静・・・
靖子/少女・・・
黒猫/國郎・・・



【第一幕】


(過去の回想。幸雄幼少期)


静  「そんなに走らないの、危ないわよ」

幸雄 「ママー! お池が凍ってるよーー!!」

静  「そうねぇ」

幸雄 「ここでスケートできるかなあ!?」

静  「無理よここじゃあ。
    ……よくスケートなんて知ってるわね、テレビで見たの?」

幸雄 「うん! 氷の上をすーーってすべるの楽しそう!」

静  「そうね」

幸雄 「やってみたいなあ……」


(回想終了)





黒猫  逢魔時(おうまがどき)、それは、一日が終わろうとする夕暮れ時。
    昼であって昼でなく、夜であって夜でなく、
    二つの時が交わり歪み(ゆがみ)が生まれる時間……。
    私が私となれるのも、この僅かな時間しかありません。
    そして、もうひとつ条件が揃えば、人間の前にも現れることができるのです。


(公園。ゆっくりとした足取りで歩く幸雄。工事中の札が目に入り足を止め溜息を吐く)


幸雄  ……思えば、あれが、最後の日だったんだろうね。

黒猫 『ニャー』

幸雄  今ならわかる、あの日、何があったのか。

黒猫 『ニャー』

幸雄  でも、それがわかったからって、今のこの現実は、何も変わらない。
    僕は、……ひとりだ。

黒猫 「にゃー……おっと……もう人間の姿になってましたか。
    この姿でにゃーと鳴いても冷たい目線しか貰えませんよねェ……」

幸雄 「……?」

黒猫 「失礼いたしました。
    いやー久々に人間と話ができるもので、ちょっと感覚を忘れてしまって」

幸雄 「はァ……」

黒猫 「はじめまして。私黒猫と申します。
    別にアブナイ奴じゃありませんから、そんな目はやめてくださいね」

幸雄 「……(無視して歩き出す)」

黒猫 「あああっちょっと、待って待って!」

幸雄 「(立ち止まって)何ですか」

黒猫 「私は、あなたの願いを叶えにきたんです!
    ……あ、これ余計怪しいでしょうか?」

幸雄 「そうですね」

黒猫 「加えて、あなたの心の中をずばり当ててさしあげちゃったりなんかしたら、
    ……怪しさメーター振り切れちゃいます?」

幸雄 「もうだいぶ振り切れてる気もしますけど」

黒猫 「ハハハ。それでも、あなたは警察に駆け込む気にはならないでしょう?」

幸雄 「……どうしてそう思うんですか?」

黒猫 「これからすることを邪魔されたくないでしょうから」

幸雄 「へえ……。
    僕がこれから何をしようとしているのかわかるんですか?」

黒猫 「ええ。勿論。私はすべて知っています」

幸雄 「っ……想像がつくでも、わかるでもなく、知っていると?
    面白いことを言うんですね」

黒猫 「私、あなたの心の中をずばり当ててさしあげると言ったはずですよ?」

幸雄 「本当に知っているんですか?」

黒猫 「ええ。……当てましょうか?」

幸雄 「どうぞ」

黒猫 「あなたは、死のうとしていた」

幸雄 「っ……」

黒猫 「どうですか?」

幸雄 「……」

黒猫 「……あれっ、はずれちゃいました? そんなはずはないんですが」

幸雄 「いえ。よくわかりましたね」

黒猫 「ああ、よかった。
    あなたもお人が悪い! 一瞬不安になってしまったじゃないですか」

幸雄 「なぜ知っていたんですか?」

黒猫 「私があなたの前にいる、それはすなわち、あなたが死にたいと思っているから。
    という方程式が成り立つんですよね。
    黒猫って、そういうものなので」

幸雄 「……あなたは、もしかして死神なんですか?」

黒猫 「いいえ、私は黒猫、死神なんかではありません。
    まぁ、あなたから見れば似たようなものでしょうけどね」

幸雄 「じゃあ、僕はもう死んでるんですか?」

黒猫 「まさか。まだあなたは生きていますよ。
    あー、私が人前に現れることができる条件というのがですね、
    この逢魔時、死にたいと思う人間、力の宿る鏡の3つなんです。
    条件が揃った時、私は、その人間の願いを叶えるべく人の姿になれるんですが……
    あー大丈夫ですかね、ついてこれてます?」

幸雄 「ええ。それが、黒猫なんですか?」

黒猫 「はい、その通りです」

幸雄 「なんか、悪魔っぽいなあ。
    見返りに心臓を食べるとか、そういうのあったりします?」

黒猫 「いえいえそんなものは趣味じゃありません。
    私が欲しいのは、鏡に宿る力だけですよ」

幸雄 「鏡に宿る力……」

黒猫 「いつもならね、こういった説明をしながら色々と茶化してみたりもするんですよ。
    でも、あなたは、私の揺さぶりなど必要ないくらい、
    固い意志となっている願望がおありのようだ」

幸雄 「まぁ……その為に、ここに来ましたから」

黒猫 「ですので私もさっさと仕事をしようと思うんですが……
    肝心の鏡らしきものが……どこにも見当たらないんですよねぇ」

幸雄 「公園のど真ん中に鏡なんて普通ないと思うけど?」

黒猫 「姿が映るものであればいいんです。
    たとえばカメラや携帯電話などでもね。
    お持ちではないですか?」

幸雄 「全部置いてきちゃいました」

黒猫 「ですよねぇ〜!
    いやぁ、困ったなあ。
    力の宿る鏡が見つからないと私は何もできませんし……」

幸雄 「無理しなくていいですよ。
    どうせ僕には僕自身で叶えられる願いしかないですから」

黒猫 「まぁそうおっしゃらずに。
    あ、そのお気遣いだけはありがたくお受け取りいたしますが、
    一応これも仕事なので、じゃあさようならというわけにもいかないんです」

幸雄 「黒猫って、仕事なんだ」

黒猫 「ええ、そうですよ。
    この逢魔時に、ふと、死んでしまいたいなぁなんて思ってしまった方が
    幸運にも力の宿った鏡をお持ちであれば!
    黒猫さーんっお仕事のお時間ですよーってことですから、はい」

幸雄 「そんな偶然なかなかないんじゃないですか」

黒猫 「そうなんです。なかなかないんですよ。
    力の宿る鏡というのも難しいですしね」

幸雄 「力の宿る鏡って、具体的にどういうものなんですか」

黒猫 「長い時間をかけて持ち主の想いが込められたものなんかがそうですよ。
    その想いの力を使うと、人間の世の理(ことわり)を
    ほんの少しだけ歪めることができちゃうんです。
    黒猫は、そうして人間の願いを叶える、まぁ、そんな感じですかね」

幸雄 「ふぅん」

(説明しながら歩き回っていた黒猫、工事中のフェンスの前で立ち止まる)

黒猫 「……おや? ここは? 工事中と書かれていますが?」

幸雄 「ああ、そこは池だったんですよ」

黒猫 「池?」

幸雄 「先週水抜きされたんです」

黒猫 「水抜きして? 埋め立ててしまうんですか?」

幸雄 「跡地に何か建物作るとか言ってたかな」

黒猫 「とすると、それなりに大きな池だったんですかね?」

幸雄 「そう、ですね。
    冬になると池の水が凍ってとても綺麗でした」

黒猫 「なるほど……見つかりましたね」

幸雄 「え?」

黒猫 「この池は、あなたにとって特別な場所なのでは?」

幸雄 「どうかな。……そう、なんですかね」

黒猫 「この池があなたの鏡のようです。
    氷の表面のことを、氷面鏡(ひもかがみ)といいますので」

幸雄 「氷面鏡……」

黒猫 「では改めまして。
    ……あなたの願いを叶えます。
    対価は、あなたが死にたいと思った理由を、見せていただくこと」

幸雄 「だから僕の願いは別に……」

黒猫 「(遮って)私は! 私の仕事をするだけですので」

幸雄 「黒猫さん、よく横暴って言われない?」

黒猫 「えっ、初めて言われましたけど?」

幸雄 「……」

黒猫 「少し寄り道をすると思って、お付き合いくださいよ」

幸雄 「わかりましたよ……」





(過去のある朝。幸雄中学2年生)


静  『おはよう。
    今月分のお金です。無駄遣いしないようにね』


幸雄  リビングのテーブルの上には、ママからの手紙と1万円札が2枚。


静  『授業参観と懇談会は欠席を出しておきました。
    来週、修学旅行よね。
    送り迎えはできないから、よろしくね』


幸雄  パパと離婚してから、ママは仕事ばかりでほとんど家にはいない。
    おばあちゃんが生きていた頃はまだよかったけど、
    今は荒れ放題の家に、いつもひとりだ。


静  『あと、少しは家を片づけておきなさい。
    洗濯もするのよ』


幸雄  ……別に、散らかってても誰も困らないじゃないか。
    僕以外、ここにはいないのに。


(過去終了)


黒猫 「ひとりだから、死にたいんですか?」

幸雄 「さあ、どうかな。でも、これが僕の普通なんだよ」

黒猫 「学校に行けばお友達もいらっしゃるでしょう?」

幸雄 「いないよ」

黒猫 「あら即答」

幸雄 「友達も、勿論好きな人もいない。
    家族もいないようなものだし、
    僕という人間がひとり、この世から消えたところで
    誰も悲しまないし、困りもしない。
    もちろん僕もね。僕自身の未来に興味すらない」

黒猫 「達観されてますねぇ」

幸雄 「初めて自殺を考えたのは小学5年生の時だったけど、
    もしその時に黒猫と出会っていたらね……
    願いだって明確にあったのに」

黒猫 「ほう。小学5年生ですか」


(過去。病室。幸雄小学5年生)


靖子 「幸雄!! あんたまったく、なんて馬鹿なことを!」

幸雄 「こうすれば、ママもパパも帰ってきてくれると思ったんだ……」

靖子 「だからって……!
    幸雄がここに運ばれたって聞いた時、ばあちゃんがどんな気持ちだったか!」

幸雄 「だって骨折でもインフルエンザでもだめなんだもん。
    このくらいしなきゃ……」

靖子 「いいかい。こんなこと、絶対にしちゃあいけない」

幸雄 「……どうして?」

靖子 「どうしてって……なんて悲しいこと言うんだろうこの子は。
    かわいそうに、かわいそうに。ごめんね」

幸雄 「なんで泣いてるの」

靖子 「……幸雄笑って御覧。
    あんたは世界一可愛いんだ。世界一いい子だよ。
    だから笑って御覧……」

幸雄 「おかしくないのに笑えないよ。
    それに、いい子でも、ママは帰ってきてくれないじゃないか」

靖子 「……忘れないでおくれ。
    ばあちゃんは、幸雄のこと、大好きだからね……」


(過去終了)


幸雄 「あの時の自殺は突発的なものだったし、見事失敗。
    僕が救急車で運ばれたっていうのに、親は来てくれなかった。
    体調を崩していた祖母だけが、駆けつけてくれたよ」

黒猫 「もしその時私と出会えていたら、おばあさまの健康を願われたと?」

幸雄 「まぁね。でも、その祖母も、もう亡くなってる。
    今の僕をこの世に繋ぎとめるものは、何もない」

黒猫 「……本当にそうでしょうか?」

幸雄 「え?」

黒猫 「では、なぜあなたは、この場所で、死にたいと思ったのですか?」


(過去の回想。幸雄幼少期)


静  「そんなに走らないの、危ないわよ」

静  「お外、楽しい?」

静  「これからお仕事忙しくなっちゃうの。
    だから、ゆっくりできるうちに、幸雄とここに来たかったのよ……」


(回想終了)


幸雄 「……理由なんて、別に」

黒猫 「ないとおっしゃる?
    黒猫に隠しごとなんて無駄ですよ?」

幸雄 「だって、ないものはないですから」

黒猫 「では何故、あなたのように心から死を願う人間が、
    わざわざこんなところに来たのでしょうか。
    普通公園なんて選びませんよ?
    手っ取り早い方法も、適している場所も、他にいくらでもありますよねぇ」

幸雄 「それは……」

黒猫 「それは?」

幸雄 「ほんっと意地の悪い人だな」

黒猫 「私は人間ではなく黒猫ですから」

幸雄 「っ……」

黒猫 「さあ、おっしゃってください。
    なぜあなたは、この場所で、死にたいと思ったのですか!?」

幸雄 「……僕は家庭を含めた周囲の環境に、ことごとく恵まれず
    夢も希望も何ひとつない。
    だから、死にたいんです!
    母と来た唯一の思い出のあるこの場所で、
    せめて自分だけでも、自分を憐れんであげながらね!」

黒猫 「……」

幸雄 「これでいいですか。嘘は何も言ってませんよ」

黒猫 「……ええ。じゅうぶんですね」

幸雄 「だったらもう僕を解放してください!」

黒猫 「……あなたは、死を願ってしまうでしょうね」

幸雄 「願っちゃだめなんですか」

黒猫 「そうじゃないんですけど、
    できればあなたを殺したくないですから……」

幸雄 「だったらいいです、自分で勝手に死にますから!」

黒猫 「いやいや、待って待って」

幸雄 「もう何なんですか!?」

黒猫 「あー、実は、ここだけの話なんですが、
    あなたが死にたいと願うことを、ですね、
    どうしても許さないって方がいらっしゃいましてね」

幸雄 「は? 許さないってどういうことですか」

黒猫 「私がご説明するよりも、お呼びした方が早いでしょう。
    こちらへどうぞ!」


(黒猫が指を鳴らすと、靖子がどこからともなくあらわれる)


幸雄 「!?」

靖子 「幸雄」

幸雄 「おばあちゃん?」

靖子 「ばあちゃんだよ」

幸雄 「嘘。本当に? おばあちゃんなの?」

靖子 「まったくなんて顔してるんだい。
    ばあちゃんは、幸雄のこと大好きだって言ったの、もう忘れちまったのかい?
    こんなこと絶対にしちゃいけないって教えたじゃないか」

幸雄 「……」

黒猫 「氷面鏡に、おばあさまの想いが残っていましたので
    お休みのところをちょっとだけ来ていただいたんです」

靖子 「大きくなったねぇ幸雄。
    前はこぉんな、ちぃちゃかったのに。
    ……大人になったこと」

幸雄 「うん……」

靖子 「……この子は、ほんっとうに、いい子でね、
    自慢の孫なんですよ……」

黒猫 「そうですかぁ」

靖子 「辛抱強くて、しなくてもいい努力をたんとする健気な子です。
    ただ、父親が好きで、ただ、母親が好きで。
    本当にそれだけなんですよ。かわいそうにねぇ」

幸雄 「おばあちゃん……」

靖子 「この子はねぇ。なぁんにもね、難しいことなんて望んじゃいないんです。
    当たり前のことしか望まないのにね、
    これを不憫と言わずに何と言うんでしょう」

黒猫 「当たり前とは……たとえば?」

靖子 「学校から帰ってきたら、『おかえり』と声をかけてもらえること、
    家族で一緒に夕飯を食べること、
    宿題を見てもらったり、学校の支度を整えてもらえること……」

幸雄 「やめておばあちゃん……」

靖子 「娘が……この子の母親がなぁんにもしてやらないからっ
    この子はひとりで頑張るしかなかったんですよ、かわいそうに!」

幸雄 「やめてよ!!」

靖子 「國郎さん、この子のパパさんが他に女を作って出ていったのは、
    夫婦の問題だからどうこう言えませんけどね、
    この子がこんな状況なのは、
    間違いなく娘の、母親としての責任じゃないですか。
    周りの子が当たり前に与えられたものを、
    この子はなぁんにも知らない」

幸雄 「ちがう、違う違う違う!」

靖子 「かわいそうに……かわいそうに……!」

幸雄 「僕はかわいそうなんかじゃない!!!」

黒猫 「かわいそうだと思われることが、嫌なんですか?
    自分を憐れんで死ぬとおっしゃったのに?」

幸雄 「……黙れ」

黒猫 「おお怖い。
    あなたが話してくださるなら、私いくらでも黙りますとも」

幸雄 「これ以上何を話せって言うんだよ……」

黒猫 「あなたがそこまで確固たる意志をもって死を願う理由ですよ」

幸雄 「理由なんて……本当にないんだ!」

靖子 「ないってことはないだろう幸雄!」

幸雄 「……ねえ、おばあちゃん。覚えてる?
    自分の生まれ育った環境は、大人になれば変えられるって言ってたよね」

靖子 「あ、ああ……」

黒猫 「そうおっしゃったことがあるんですか?」

靖子 「帰ってこない両親を待つこの子があまりにも不憫で、
    もう諦めなさいと、言ったことがあるんです。
    大きくなったら、愛した分だけ愛情を返してくれる人があらわれるから、
    環境が変わるまで待ちなさい、と……」

幸雄 「でもね、大きくなってわかったんだ。
    自分に根付いた思考って、簡単に変えられるものじゃないって」

靖子 「そんなことはないよ」

幸雄 「はは……僕は、そうとしか思えない。
    ずっと、生きているのが辛くてしょうがなかった。
    僕は、誰からも必要とされない人間だから、
    生きていること自体に違和感があるんだよ。
    生きる意味もない、生きていたくもないのに、どうして生きてるんだろう。
    この世界は、僕が生きてていい世界じゃない、って」

靖子 「幸雄……」

幸雄 「おばあちゃんに最期にまた会えて嬉しかったよ。
    ……ごめんね。でも僕は、もうじゅうぶんなんだ」

靖子 「……幸雄」

黒猫 「みんなが持っている当たり前を欲しがることに疲れましたか」

靖子 「かわいそうに」

黒猫 「何故自分だけがこんなにも、と思いますよね」

靖子 「生きていちゃぁいけない人間なんて、いるはずないじゃないか……」

黒猫 「ええ、それはまったくその通りです」

幸雄 「二人に何と言われようと、僕の考えは変わりません。
    僕にこれからも生きるという選択肢は……ない」

黒猫 「……あなたが生きてきた長い年月をかけて、
    あなたの死にたい理由はここまで固い意志となった」

幸雄 「ええ」

靖子 「待ってください。死んでも死にきれませんよ、これじゃあ」

黒猫 「お気持ち、お察しします」

靖子 「こんなこと……ああ、私のせいなんですかねぇ。
    私が娘の子育てを間違えてしまったから……」

黒猫 「間違えた自覚がおありなんですか?」

靖子 「そんなもんはありゃぁしませんけど、
    私がもう少ししっかりと娘を育てていればね……
    娘は、ちゃんと子育てもできたかもしれない、
    この子だって、こうならなかったかもしれないじゃないですか」

黒猫 「それはどうでしょうかねえ」

靖子 「ごめんねぇ……ごめんねぇ幸雄……」

幸雄 「謝らないで。
    ……おばあちゃんは、僕を大事にしてくれたじゃないか」

靖子 「けど、幸雄の欲しかったものを、私はあげられんかった。
    だから幸雄は、こうなったんだろう?
    私のせいなんだろう?」

幸雄 「違う、それは……」

靖子 「私はね、お母さんに大層な仕事があるから、
    仕方なく幸雄を育ててきたわけじゃぁないよ。
    こんな思いをさせる為に、育てたわけじゃぁないんだよ。
    お母さんは、お腹を痛めて産んだ子を愛せないような母親だけどもさ。
    最初からそうだったわけじゃぁない。
    幸雄が生まれた時のことだ。
    お父さんとお母さんが、いっぱい悩んでね。
    あんたの幸せを願って幸雄と名付けたんだ。
    幸雄は幸せになる為に生まれてきたんだよ、ばあちゃんは知ってるよ」

幸雄 「幸せって、なに」

靖子 「え……」

幸雄 「幸せって、なに?」

靖子 「それは……人を愛して、愛されて……」

幸雄 「ああ、よく言うよね。愛があれば幸せとか。
    じゃあその、愛ってなに?」

靖子 「そ、それは……」

幸雄 「僕は、何もわからないんだ。
    みんなが、友達や彼氏彼女っていう名前の他人に固執する理由だって
    僕は、想像すらできない。
    親からも愛されなかった人間が、誰かを愛せると思う?
    愛がどういう気持ちなのかまったく想像できない僕が?
    幸せって、たぶんその気持ちの先にあるものなんでしょう?
    無理でしょう……絶対無理でしょう!?」

靖子 「そんなことはないから……まだ、やり直せるからっ……!
    ねえ、黒猫さん、この子を助けてやってくれませんか。
    お願いします、この子を生かしてやってくださいよ……!」

黒猫 「私は、神でも仏でもありません。
    死にたい心の内側にある、本当の願いを叶えるお仕事をしている、
    ただの、黒猫なんです。
    おばあさまの願いを叶えるのは、業務外というやつなんですよね」

靖子 「後生だよ……!
    お願いします、お願いします……」

幸雄 「やめて、おばあちゃん!」

黒猫 「これ以上話をしていても、無駄のようですのでね。
    仕方がありません。永元幸雄さん。あなたの命はここで終わります。
    願い通り。人間としての一生が、終わります。よろしいですね」

幸雄 「勿論」

靖子 「あああ……」

黒猫 「では……叶えましょう、あなたの、望みを!」


(間。強い光に目がくらんだ後、消えてしまう幸雄)


靖子 「……消えちまった……幸雄は……? 死んじまったのかい……?」

黒猫 「……」

靖子 「こんな酷なことってないだろう……
    見たくなかったよ……うっ、ううぅ……」

黒猫 「……ご安心ください。
    私は黒猫。死神では、ありません」

靖子 「……けど、あの子は……」

黒猫 「確かに、死を望む思いは強く、他に示せる道も、ありませんでした。
    本来であれば、安らかな最期を与えるべきでしたが、
    ……私はそうしたくありませんでした」

靖子 「え……?」

黒猫 「とはいえ、お孫さん、幸雄くんの意志は固く、
    どうしたって予定通り死を選んでしまうでしょう。
    ですから、確かに今、幸雄くんの人生を終わりにはしたんです」

靖子 「そんな……」

黒猫 「……この池には、おばあさまもよくいらしていたようですね」

靖子 「……この池の向こうにある神社によく行ってたんだよ。
    娘のお宮参りも、幸雄のお宮参りもしてね。
    娘や孫が幸せになるように、何度も何度もお参りに……行ったのにっ……」

黒猫 「なるほど……この氷面鏡に宿っている力には、その祈りもあるんですね」

靖子 「でも全部無駄だったんじゃないか! 幸雄は死んじまったんだろう!?」

黒猫 「……確かに、人としての生は終わりましたが。
    鏡の力で、新しい道を示してみたんです」

靖子 「新しい、道?」

黒猫 「まだ幸雄くんは、幸せを理解できるほどには、心の傷が癒えていません。
    ですから私は、時間薬(じかんぐすり)を与えました」

幸雄 『ニャー』

靖子 「黒猫……?」

黒猫 「……幸雄くんには、黒猫として生きていただきます」

靖子 「もしかしてこの猫が……?」

黒猫 「はい。そうです。
    人間のそばで、人間に寄り添って、ゆっくり傷が癒されるように。
    いつか幸せを知り、受け入れることができるように。
    鏡の力を使って、私がしてさしあげられるのは、これが限界でした」

靖子 「この子の為に、考えてくださったんですね……」

幸雄 『ニャー!』

黒猫 「ふふ……死にたいと言ったはずなのに、と嘆いておいでですかね。
    その姿では、どんなに悪態をついたところで、可愛い鳴き声なんですよ?」

幸雄 『ニャー……』

黒猫 「……黒猫は、死を願う人間の前にあらわれ、
    その人間の心に触れ、その人間を導く仕事です。
    黒猫は、嫌でも人間のそばにいなければいけません。
    人間が生きる意味を、幸せとは何か、愛とは何かを、
    あなたは知りたがっていたでしょう。
    黒猫の仕事をしていれば、いずれそれらを理解できる日が来るはずですよ」

靖子 「この子が……少しでも幸せを感じられるようになれれば……
    私も何も言うことはありません」

黒猫 「それは、これからの働き次第ではありますが、
    彼にとってよい出会いもあることでしょう、きっと、たくさんね」

靖子 「そう願います」

黒猫 「急にお呼びだてして申し訳ありませんでした。
    おばあさまも、ゆっくりお休みくださいね」

靖子 「ありがとう、ございました」

(強い光に目がくらんだ後、消える祖母)


幸雄 『ニャーニャー!!』

黒猫 「これからあなたも黒猫として、迷える人間の心の内を、知っていくんですよ。
    逢魔時、死にたいと思う人間と、力の宿る鏡、
    それが揃った時、あなたは人間と言葉を交わすことができます。
    その3つが揃うまでは、あなたは何もできません。
    もちろん、自分で死ぬこともね。
    時間はいくらでもありますよ、……人間をよく知る、チャンスです。
    ……グッドラック」





(道端にいる黒猫(幸雄)。中学生が歩いてくる)


幸雄 『ニャー』

少女 「……はぁ…………もーやだ、受験……」

幸雄 「受験?」

少女 「……あ、ごめんなさい、別に話しかけたわけじゃ……」

幸雄 「そうか。こういうことなんだ……」

少女 「え?」

幸雄 「ああ、すみません、失礼しました。
    初めまして、お嬢さん。
    私の名は……黒猫と申します」


【第一幕 了】





【第二幕】


(オフィスビルの一室)


静  「はい、お電話かわりました、永元です。
    はい……はい……ええ、幸雄は息子ですが……はい。
    ……えっ……」





(公園。黒猫の姿の幸雄。便宜上 黒猫弐 と表記)


黒猫弐 あれから、どれだけの時が流れただろう。
    死んだ後もこうして僕が僕として存在しているなんて、
    まるで物語の中みたいだ。
    まぁ僕はもう、人間じゃなくて、黒猫なんだけど。
    ……条件が揃わなければ、人間と話すことはできない。
    ただ、人間を見ているだけの時間、
    死にたいと願った人間と話す時間、
    僕は、常に人間と向き合う日々を過ごしていた。





(公園。夕焼け小焼けの鐘の音が鳴る。とぼとぼと歩いてくる静)

静  「この鐘が鳴ったらおうちに帰って……ごはんを作って……」

黒猫弐『ニャー』

静  「馬鹿よね……。
    ごはんなんて、数えるほどしか作ってあげられなかったのに……」

黒猫弐『ニャー……』

静  「どうして……どうしてよぉ……」

黒猫弐「……どうか、されましたか?」

静  「……え。(涙をぬぐって)すみません、何でもありませんので」

黒猫弐「何でもないようには見えませんが」

静  「……私のことは放っておいてください」

黒猫弐「そういうわけにもいかないんですよね」

静  「……もしかしてあなた私服警官? 職務質問ですか?」

黒猫弐「いえいえそういうわけでは」

静  「だったらもうあっちへ行って!!」

黒猫弐「申し訳ありませんが、それはできかねます。
    これが私の仕事ですから」

静  「仕事?」

黒猫弐「はい。あなたから見れば突拍子もないことかもしれませんけどね」

静  「じゃあその御大層な仕事とやらと、私に声をかけることがどう関連するのか、
    説明していただけるかしら!」(いらついて)

黒猫弐「かしこまりました。
    私は黒猫と申します。
    この逢魔時、死にたいと思う人間、力の宿る鏡、
    その3つの条件が揃った時、私はその人間の前に現れることができるんです。
    その人間の願いを、叶える為に」
 
静  「……(呆れて)そういうの、結構なんで」

黒猫弐「そうご遠慮なさらずに。
    私がお話できるのはあなただけなんですよ。
    条件を満たした人間しか、私の姿を見ることはできませんから」

静  「そういう、ゲームか何かなの?
    若い子の遊びはわからないわ」

黒猫弐「遊びではございません。
    現に、あなたには、死にたいと思う理由がおありでしょう?」

静  「あったらなんだっていうの?
    そんなもの、生きてりゃ誰だって、一つや二つあるはずだわ!」

黒猫弐「そうですね、そのお気持ちを否定するつもりは更々ありません。
    ただ、見せていただきたいんですよ。あなたのその理由というものを」

静  「見せる、って……」

黒猫弐「……見せていただければ、私は、あなたの願いを叶えることができます。
    それが私、黒猫の仕事でして」

静  「そんな仕事あるわけないじゃないの」

黒猫弐「信じられないのも無理はありませんが、それでもこれは現実です。
    いかがでしょう。どうしても叶えたい願いは、ございませんか?」

静  「今会ったばかりの赤の他人に話すことなんて何もないわ」

黒猫弐「他人だから話せる、というのもあると思いますよ」

静  「……」

黒猫弐「少し寄り道をしたと思って、お話をしませんか。
    お茶などご用意できないのは心苦しいんですけどね」

静  「……何を話せっていうの」

黒猫弐「何でも構いませんよ」

静  「そもそも願いを叶えるって、どういうことよ?」

黒猫弐「どういうことも何も、そのままなんですが」

静  「……お金が欲しい、とかでも?」

黒猫弐「ええ勿論構いませんが、それは、あなたが本当に望んでいるものですか?」

静  「そうじゃないけど……」

黒猫弐「あなたの心からの望みであれば、
    たとえお金がほしいという願いでも、叶えてさしあげますよ」

静  「じゃあ……死んだ人間を生き返らせるなんてことも、できるの?」

黒猫弐「え……?」

静  「……馬鹿ね。何を言ってるのかしら私」

黒猫弐「……それがあなたの願いでしょうか」

静  「ただ言ってみただけよ……わかってるわそんなことできっこない」

黒猫弐「ではとりあえず、鏡の力で死にたいと思った理由を見せていただきますね。
    それがなくては始まりませんから」

静  「鏡の力?」

黒猫弐「あなたの鏡は、とても大きな力を持っています。
    ……とても、とてもね。それは『僕』が保証します。
    あなたの過去を見ることも、願いを叶えることも、すぐにできるでしょう」

静  「私、今そんな鏡なんて持ってないんだけど?」

黒猫弐「そうでしょうとも。
    これを持ち歩けるなら、それこそ人間じゃありません」

静  「どういうこと?」

黒猫 「では、早速始めましょう。イッツショウタイム!」





(過去。廊下に響く足音。霊安室の扉が開く)


静  「幸雄!」

國郎 「……遅かったじゃないか」

静  「あなた、来てくれてたの……?」

國郎 「俺のところにも連絡が来たからな」

静  「そう」

(静、幸雄の死に顔を眺めながら座り込む)

静  「……幸雄……どうして……」

國郎 「……何か、学校でトラブルでもあったのか」

静  「そんなことあるわけないじゃない」

國郎 「ないと言い切れるのか?」

静  「それは……」

國郎 「どうせ仕事仕事で、ずっと幸雄を放っておいたんだろう」

静  「っ……養育費を払いもしないで、
    あちらの女性と仲良くやってたあなたには言われたくないわ!」

國郎 「それは今関係ないだろう!」

静  「ないって言いきれるの!?」

國郎 「問題のすり替えはお前の悪い癖だ!!」

静  「それはあなたでしょう!?」

國郎 「幸雄が死んだと報せを受けても、俺よりも遅く来るくらいだ、
    余程忙しいんだろう?
    幸雄が死ぬほど悩んでいたことにも気づかない。
    ご立派な母親だ」

静  「じゃああなたはどうなのよ。
    養育費も払わず、幸雄に会いに来たことも、電話の一本も寄こしたことない。
    死んでからようやく会いに来て、偉そうに父親面で私に説教。
    いい御身分じゃない!」

國郎 「俺が来ない方がよかったって言うのか!
    お前は、幸雄にこの冷たい部屋でずっと一人でいろと言えるなんて、
    相変わらず鬼のような女だ!!」

静  「何ですって!!
    ……っ、幸雄! どうして、どうして自殺なんか……! 幸雄!!!」


(過去終了)


黒猫弐「自殺で亡くなった幸雄というのは、息子さんですか?」

静  「……ええ」

黒猫弐「びっくりされました?
    あなたの記憶を辿って、映画のように再生することができちゃうんです。
    種も仕掛けもございません」

静  「……取り乱して恥ずかしいわ。
    別れた主人とはいつもこうだったから。
    幸雄の前で何やってたのかしらね、情けない」

黒猫弐「……相性が悪いのは、仕方がないと思いますよ」

静  「慰めをありがとう。
    でも、あの時の私を振り返ってみて、少しほっとしてもいるのよ」

黒猫弐「おや、取り乱す人間の方が多いんですけどねぇ」

静  「だって、過去がもうすでに、取り乱しているなんてものじゃないから」

黒猫弐「まぁ確かに」

静  「私……泣いていたのね」

黒猫弐「……たったひとりの息子さんを失う、
    しかも自殺で亡くすなんて、とても悲しいことです、無理もありません」

静  「……ええ。どれだけ鬼で、母親失格でも、やっぱり、私は母親で……
    息子を失って泣くくらいには、母親なのよ」

黒猫弐「……どうしたんですか」

静  「え?」

黒猫弐「なぜそうやってご自分を責めていらっしゃるのですか?
    ……どうぞ。このハンカチをお使いください」

静  「あ……やだ、私、また涙が……」

(静、ハンカチを受け取って涙を拭きながら)

静  「もう……息子はいないわ……取り返しがつかないのよ……」

黒猫弐「……失ってから気づくというのはよくある話です」

静  「……ほんと、そうね」

黒猫弐「しかし、あなたが死にたいと思った理由は、
    息子さんを亡くされたから、というだけの、……というと語弊がありますが、
    単純にそれだけではなさそうに思えますが」

静  「わからないわ、自分では」

黒猫弐「引き金になったのは確かなのでしょう。
    ただ、他にも何か、あなたを追い詰めるものがあったのではありませんか?」

静  「……そうかしら」

黒猫弐「では、鏡の力で関連しそうなシーンを再生してみましょうか」

静  「あなた悪趣味って言われない?」

黒猫弐「観たくて観ているわけじゃないんですよ。
    お仕事ですから、仕方がないんです」

静  「仕方がない、と思ってるようには聞こえないけど」

黒猫弐「ええっ、それは心外です!」(大げさに)

静  「あなたの性格がひんまがっているのはよくわかったわ」

黒猫弐「ははは、まぁ仮にそうだとしても、ご安心ください。
    鏡はありのままを映してくれますから……」


(過去。静と靖子がリビングで話をしている)


静  「ねえ、お宮参りなんて行かなくてもいいんじゃないの?」

靖子 「こういうことはきちんとするもんなんだよ」

静  「でも外は寒いし……」

靖子 「出かけるのが億劫だって言うのかい?
    子供の健康と幸せがどうでもいい母親がいるなんて信じられないよ」

静  「そういうこと言ってるんじゃないの。
    幸雄、まだほっぺの湿疹ひどいから、冷えたら痛くなっちゃうと思って」

靖子 「母親がちゃんとしてりゃあ、湿疹なんて出やしないんだけどね」

静  「そんな……」

靖子 「まったく、楽することばっかり一生懸命なんだから。
    母親になったんだ、もうちょっとしっかりしてもらわないと
    幸雄がかわいそうじゃないか」

静  「最初から完璧になんてできないわよ」

靖子 「だったら子供なんて産まなきゃいいんだ。
    あんたのはただの我儘なんだよ」

静  「……っ」

靖子 「大体お宮参りだって、本来なら國郎さんのご両親がやるもんなんだよ。
    でも、さすがに遠いし、あちらまで伺うのもお呼びするのもねぇ。
    その分、私がしっかり面倒みるって言ってるんだ。
    だからあんたもしっかり母親やんなさい」

静  「やってるじゃない……」

靖子 「どうだかね。ろくに掃除もできないじゃないか。
    だからすぐ幸雄が病気になっちまうんだろう。
    ああ幸雄くんおっきしたのかい。
    咳き込んでかわいそうだねぇ、お部屋ももっと綺麗にしてもらおうねぇ」

静  「お母さん、私だってできる限りやってるのよ!!」

靖子 「ああ、ほっぺ痛いねぇ、かわいそうに。
    よしよし、ママひどいねぇ、ばぁばがいるからねぇ」


(過去終了)


静  「やめて!!」

黒猫弐「……どうされました?」

静  「母の顔なんて見たくないわっ」

黒猫弐「……実のお母さまなのに?」

静  「そうだけど、見てればわかったでしょう。こういう人なの!」

黒猫弐「こういう人、ですか」

静  「……口を開けば、否定ばかり。
    それでどれだけ人が傷つくかもわからないの!」

黒猫弐「なるほど」

静  「……私を認めてくれる人なんて、誰もいなかったわ」

黒猫弐「ご主人も、ですか?」

静  「だったら今別れてないわよ」

黒猫弐「確かに」


(過去。リビングで話している静と國郎)


國郎 「ただいま」

静  「お帰りなさい」

國郎 「幸雄は?」

静  「今何時だと思ってるの、もう寝たわよ」

國郎 「そうか」

静  「……昼間、お義母さんから連絡きたわ。
    お義父さん、手術ですって?」

國郎 「ああ。何日か有休とって、実家に帰ろうと思ってる」

静  「そう、わかった。……具合、よくなさそうね」

國郎 「手術も、気休めにしかならないらしい」

静  「……だったら尚更、早めに帰った方がいいわね。
    幸雄のことは任せて」

國郎 「そのことだが……お前も一緒に来てくれないか」

静  「え?」

國郎 「おふくろも年だし、家のことや、親父の世話を手伝ってほしいんだ」

静  「そんな、急に言われたって無理よ。
    仕事も復帰したばかりだし、休みなんて取れないわ」

國郎 「辞めたらいいじゃないか」

静  「馬鹿言わないで!」

國郎 「親父はもう長くないんだ!
    仕事はまた見つければいいだろう。
    今は嫁の務めを果たしてくれ」

静  「何時代錯誤なこと言ってるの。ちょっと冷静になってよ。
    私はそんなことの為にあなたと結婚したわけじゃないわよ」

國郎 「親父の病気がそんなことだって言うのか!!」

静  「違うわ! 
    私が仕事を辞めてまでしなきゃいけないことじゃないって言ってるの!」

國郎 「……お前がここまで冷たい女だとは思わなかったよ」

静  「っ……あなたに言われたくないわよ」

國郎 「何だと?」

静  「幸雄のことはどうするつもりだったの。
    私の母に預けるの? それとも連れて行くの?
    やっと保育園に慣れてきたところだったのに、かわいそうだとは思わないの!?
    そんなことも考えられないなんて、ほんっと冷たい父親なのね!」

國郎 「口の減らない女だな……」

静  「自分が不利になったらすぐ私を攻撃するわけ?
    ずいぶん冷たい夫なのね」

國郎 「(溜息をついて)……お前に頼もうとした俺が間違ってたよ」

静  「そうね。……地元にはあなたのお友達もいらっしゃるんだし、
    そちらに頼んだらいいんじゃない?」

國郎 「っ……、どういう意味だ?」

静  「そのままの意味よ。
    私が気付いていないとでも思った? おめでたいわね」

國郎 「……それで強気な態度でいられるわけか。めでたいのはどっちだ」

静  「え?」

國郎 「気付いているならもうお前に遠慮はいらないということだろう?」

静  「何ですって……」

國郎 「俺はこんな家に帰ってこなくたって一向に構わない。
    お前は困るだろうがな」

静  「どういう意味よ」

國郎 「そのままの意味だ。
    お前の稼ぎだけで暮らしていけると思っているのか?」

静  「生活費を入れないつもり!?」

國郎 「当たり前だろう?
    自分が住むわけでもない家のローンを払ってどうするんだ」

静  「私と幸雄がどうなってもいいって言うの!?」

國郎 「お前が俺とこれからも暮らしていくつもりなら、
    口の聞き方に気を付けろと言ってるんだ!」

静  「あなたみたいな人でなし……もうまっぴらよ!!!」


(過去。リビングで話す静と靖子)


靖子 「それで。話があるってどうしたんだい」

静  「……」

靖子 「(お茶を飲んで)あんたはお茶ひとつ満足に淹れられないんだねぇ。
    まったくしょうがないんだから」

静  「……私、離婚するの」

靖子 「えぇっ!? あんた……國郎さんに何したんだい!」

静  「私は何もしてないわよ!」

靖子 「ちいちゃいこ預けて仕事なんかしてっから、
    國郎さんの面倒みれなくなったんだろう!
    嫁には嫁の領分ってもんがあるのに
    あんたは昔から我儘で生意気だから!!」

静  「私が悪いわけじゃないわ!!」

靖子 「……幸雄のことは? ちゃんと話したんだろうね?」

静  「あっちは引き取るつもりはないみたい」

靖子 「あんた一人で育てていけるのかい?」

静  「仕事もあるし、なんとかするわよ」

靖子 「ごはん作ったり、掃除や洗濯だって、仕事しながらやれるのかい?
    今だってこんなちゃんとしてないのに」

静  「だって、やるしかないじゃない」

靖子 「努力もしないで口だけは大きいんだからねぇ」

静  「そういうこと言わないでよ。
    言ったってどうにかなる問題でもないんだから。
    時間の無駄でしょ」

靖子 「無駄って……母親の自覚について話すのが無駄だって?
    ほんっと、こんな母親で幸雄がかわいそうだよ。
    施設にでも入れた方がよっぽど幸せだ!」

静  「何よそれ!!」

靖子 「幸雄のことは、私がやるよ。
    あんたに任せちゃおけないからね」

静  「え? ……助けて、もらえるなら、ありがたいけど、でも」

靖子 「あんたの為じゃないよ、幸雄の為にやるんだ」

静  「わかってる」

靖子 「あんたは國郎さんの分まで仕事しておいで」

静  「……うん」

靖子 「そうと決まれば、引っ越しの支度をしないとね」

静  「えっ?!」

靖子 「幸雄の面倒みるなら、一緒に住んでた方がいいだろう」

静  「そう、かもしれないけど……」

靖子 「……父親にも捨てられて、母親は仕事しなきゃなんなくて。
    ほんと、幸雄はかわいそうだこと」

静  「……そんなこと」

靖子 「え?」

静  「幸雄には絶対言わないでよ」

靖子 「何だい急に」

静  「幸雄を勝手にかわいそうな子にしないで!!」

靖子 「かわいそうじゃなかったら何だって言うんだい!!
    現実を見れないなら、施設に預けちまいな!!」

静  「どうしてそう話が飛躍するのよ!!」

靖子 「あんたはほんっとどうしようもない!
    母親失格だ!!!」


(過去終了)


静  「現実、仕事をして、お金を稼がなきゃ生きていけない。
    離婚後、私は、母と同居せざるを得なくて、
    母はあの通りの人だから。
    家に帰ったら母がいる。
    それは、主人と暮らしていた時よりも地獄だったわ」

黒猫弐「地獄……?」

静  「病気にまでなったのよ、母のせいで」

黒猫弐「……!」

静  「母と暮らすことで鬱になるなんて滑稽よね。
    医者は母との別居を勧めたけど、生活上できなかったし、
    だから私は、仕事に打ち込んで、母と過ごす時間を減らしたわ。
    そうしたら薬もどんどん減っていったの。
    母との時間を減らすということは、幸雄とも一緒にいられない。
    それでも私は、そうするしかなかった……」

黒猫弐「母親失格、この言葉は痛いですよね。
    最初から完璧な母親などいない、あなたのおっしゃったとおりでしょうに」

静  「でも、母とうまくやる為には、私は完璧じゃないといけないのよ」

黒猫弐「……なるほど」

静  「幸雄が小学校にあがると、保育園とは違って、
    保護者が参加しなければいけない学校行事やイベントがたくさんあったの。
    でも、私は母と距離をとっていたし、仕事もあった。
    母もまだ元気だったから、それらは全部母に任せたわ。
    でも、私が距離をとっても、あっちはそうじゃないから……
    無理やりにでも時間を合わせて、母は私を責めるの。
    幸雄がかわいそうかわいそうって……
    私は母のせいで何もできなくなってるのに!!」

黒猫弐「ふぅむ……」

静  「仕事に打ち込んでいたことで、何不自由なく暮らせてたから、
    これでいいんだ、って自分に言い聞かせてたけど、
    ママへ、って、小さなお手紙や、絵や、折り紙のプレゼントを貰うたびに、
    寝ている幸雄を抱きしめて泣いたわ……」

黒猫弐「……後悔は、していらっしゃいますか?」

静  「……もっと幸雄と一緒に過ごせてたらって……、ほんとそれだけは……」

黒猫弐「人間、全部をうまくやるなんて、難しいですから」

静  「きっと幸雄は、私のことを恨んでるわね」

黒猫弐「……そう思われる理由は何ですか?」

静  「……私、母が亡くなった時に、……泣かなかったの。
    だって、心底ほっとしたんだもの。
    これでやっと、私は幸雄との時間を過ごすことができるって。
    ……でも、遅かった。
    久しぶりに幸雄と二人で話ができて、私は浮かれていて……。
    幸雄が言ったの。
    『おばあちゃんが死んで悲しくないの?』って……」

黒猫弐「あー……それは答えにくいでしょうねえ。
    はいそうですなんて言えないでしょうし」

静  「ええ。忘れていたのよね。
    幸雄にとっては、大好きなおばあちゃんとの別れだって。
    それと同時に、怖くなったわ」

黒猫弐「何がですか?」

静  「母はあの通りの人でしょう。
    ……幸雄にも、言っていたんじゃないかしら。
    私は母親失格だって。
    もしそう言われ続けていたとしたら、
    幸雄は、私のことを、よく思ってるはずがないわよね」

黒猫弐「そうであったかもしれませんし、
    そうではなかったかもしれませんよ」

静  「……幸雄との時間を取り戻そうと、頑張ろうとしたの。
    でも……おばあちゃんのごはんが食べたいなんて言われたら、
    もうどうしようもなかった」

黒猫弐「ご実家の味を、覚えていなかったんですか?」

静  「子供の頃は、料理なんてしたことなかったのよ。
    危ないからと手伝いひとつやらせてもらえなかった」

黒猫弐「なるほど」

静  「母と食べるごはんは息が詰まってたし、
    母の料理の味の記憶はないの。
    結婚してからは、主人の実家の味ばかりで、
    私にはどうしようもなかったわ」

黒猫弐「息子さんが、それでもおばあさまのごはんを食べたいと言ったのでしょう?
    どうされたんですか?」

静  「お金を渡したわ」

黒猫弐「お金を?」

静  「好きなものを買ってきて食べなさいって。
    仕方ないでしょ、私の作ったものを食べたくないって言うんだから。
    ふ、ふふ……母は死んでも私を縛り付けるのよね……」

黒猫弐「根本がそこではなさそうですが、理解は難しそうですね」

静  「え?」



(過去のある朝。幸雄中学2年生)


幸雄 「……手紙と、お金……、そっか今日から10月だっけ」

静  『幸雄へ
    おはよう。今月分のお金です。無駄遣いしないようにね。
    授業参観と懇談会は欠席を出しておきました。
    来週、修学旅行よね。
    送り迎えはできないから、よろしくね。
    あと、少しは家を片づけておきなさい。洗濯もするのよ。
    今月は出張もあるから、帰ってこれない日もあります。
    家をお願いします。母より』

幸雄 「帰ってきたって、帰ってこなくたって、
    どうせ僕とは顔を合わせないくせに」


(過去終了)


静  「幸雄……!?」

黒猫弐「直接の会話がない、食事も作らず、家事は子供任せ。
    これは立派な放置……世間ではネグレクトと呼びますよね」

静  「なっ……どうして!?
    じゅうぶんなお金も渡してるし、
    中学生に家のことを頼んじゃいけないっていうの!?」

黒猫弐「そういうわけではありませんが、
    いささか、度が過ぎるようにも見えますよ」

静  「だって仕方がないじゃない、仕事があるんだもの!
    出世したら、どんどん家のことをやる時間もなくなって……」

黒猫弐「何のお仕事をされているのかはわかりませんが、
    子供と会話のひとつもできないほど、お忙しかったんですか?」

静  「男社会で出世する為にはしょうがないのよ。
    それに、幸雄が私立の学校に行きたいって言うかもしれないし、
    そうなったらお金なんていくらあっても足りないんだから」

黒猫弐「……それ、ちゃんと息子さんに伝えました?」

静  「え?」

黒猫弐「あなたのそのお考えを、少しでも息子さんに伝えたことありましたか?
    なかったんじゃないですか?」

静  「……何を伝えろっていうの……。
    母親の私が幸雄を大事に思うのは当たり前じゃない。
    父親がいない分まで、幸雄の為に仕事をしてきたのよ。
    見てればわかるじゃない!!」

黒猫弐「……しかし、息子さんは、死を選ばれた」

静  「……そうよね。
    本当はわかってるのよ……わかってる……!
    私が悪かったのよ、わかってるのよ!!」

黒猫弐「伝えなければ、伝わらなければ、
    いくら大事に思っていても、意味がないんですよ」

静  「聞きたくないわ!
    ……どうしようもなかったのよ。
    大事な息子に嫌われてるかもしれないって……
    ものすごい恐怖なんだから!」

黒猫弐「先ほども申し上げましたが、そうでなかったかもしれないんですよ?」

静  「逃げた自覚はあるわ……。
    もう、なんで?
    ……どうしてうまくいかないの……!?
    私はただ、家族が欲しかっただけなのに……
    安心できる家庭が欲しかっただけなのに!」

黒猫弐「夫には捨てられ、母親には責められ、息子さんには自殺され、
    まさに、散々な人生」

静  「……ええ、ほんと……散々よ」

黒猫弐「……」(無言で指を鳴らす)


(過去。幸雄小学五年生。病院)


靖子 「幸雄!! あんたまったく、なんて馬鹿なことを!」

幸雄 「こうすれば、ママもパパも帰ってきてくれると思ったんだ……」

靖子 「だからって……!
    幸雄がここに運ばれたって聞いた時、ばあちゃんがどんな気持ちだったか!」

幸雄 「だって骨折でもインフルエンザでもだめなんだもん。
    このくらいしなきゃ……」

靖子 「いいかい。こんなこと、絶対にしちゃあいけない」

幸雄 「……どうして?」

靖子 「どうしてって……なんて悲しいこと言うんだろうこの子は。
    かわいそうに、かわいそうに。ごめんね」

幸雄 「なんで泣いてるの」

靖子 「……幸雄笑って御覧。
    あんたは世界一可愛いんだ。世界一いい子だよ。
    だから笑って御覧……」

幸雄 「おかしくないのに笑えないよ。
    それに、いい子でも、ママは帰ってきてくれないじゃないか」

靖子 「……忘れないでおくれ。
    ばあちゃんは、幸雄のこと、大好きだからね……」


(過去終了)


静  「今のは……!?」

黒猫弐「息子さんが初めて自殺未遂をしたときのものですね」

静  「……自殺未遂!? だってまだ、こんな……小学生で!?」

黒猫弐「記憶にございませんか?」

静  「怪我をして、病院にいると連絡がきたことはあったけど……、
    たいしたことないと思って……」

黒猫弐「退院後、おばあ様とも、息子さんとも、何も話をされなかった?」

静  「……して、ないわ……」

黒猫弐「そうですか」

静  「幸雄は……私を家に帰ってこさせる為に……こんな……」

黒猫弐「いじらしいですね」

静  「……っ」

黒猫弐「散々な人生は、あなたの専売特許ではありません。
    あたたかな家庭を、家族を欲していたのも、
    あなただけではなかったということです」

静  「……幸雄」

黒猫弐「あなたには、息子さんから逃げた自覚がおありでしたね。
    たったひとりの家族であるあなたをずっと見つめていた息子さんは、
    ある時に気付いたのでしょう、あなたが自分から逃げていることにね。
    そして……絶望した」

静  「……私、が……逃げた、から……」

黒猫弐「……それが全ての元凶だった、……のかもしれませんね。
    でも……」(指を鳴らす)


(過去。幸雄幼少期。公園)


静  「そんなに走らないの、危ないわよ」

幸雄 「ママー! お池が凍ってるよーー!!」

静  「そうねぇ」

幸雄 「ここでスケートできるかなあ!?」

静  「無理よここじゃあ。
    ……よくスケートなんて知ってるわね、テレビで見たの?」

幸雄 「うん! 氷の上をすーーってすべるの楽しそう!」

静  「そうね」

幸雄 「やってみたいなあ……」

静  「ママも一緒にやりたいな」

幸雄 「うん! ママと一緒にやるー!!」

静  「……やれたら、いいんだけど、ごめんね」

幸雄 「どうしたのママ」

静  「これからあまり構ってあげられなくなっちゃうから……」

幸雄 「ママお仕事忙しいの?」

静  「うん。ママこれからお仕事忙しくなっちゃうの。
    だから、ゆっくりできるうちに、幸雄とここに来たかったのよ……」

(過去終了)


静  「……離婚届を出した、帰りね、これ……」

黒猫弐「少なくとも、この時のあなたは、きちんと母親だったと思いますよ」

静  「……」

黒猫弐「息子さんがあなたに向ける笑顔。
    あなたが息子さんに向ける笑顔。
    この時は確かに、心が通じ合っていた」

静  「……ええ……」

黒猫弐「人間は完璧ではありません。
    大人になっても、母親になっても、
    間違えることはあるんです。
    うまくいかないこともたくさんあります。
    それが当たり前なんです。
    ……どこかで何かが違っていれば、
    悲劇とならずに済んだのかもしれませんが、
    現実、息子さんは亡くなり、
    あなたも死にたいと思ったことで、ここにいる」

静  「……」

黒猫弐「あなたは息子さんに何も伝えなかった。
    伝えようともしなかった。
    あなたは被害者かもしれません。
    けれど、立派な加害者です」

静  「私が、加害者……」

黒猫弐「……人間はそれを負の連鎖と呼びますね」

静  「母のようには絶対なるまいって、思ってきたのに……」

黒猫弐「……さて。
    あなたが死にたいと思った理由はすべて見せていただきました。
    いかがされますか? あなたは何を望まれますか?」

静  「…………幸雄を、かえして」(泣きながら絞り出すように)

黒猫弐「私が奪ったわけではありません。
    息子さんが、死を選んだだけです」

静  「……息子とやり直したい。
    もう一度、やり直したいの!!!」

黒猫弐「……息子さんの命はもうこの世にはありません。
    生き返らせることは、不可能です」

静  「願いを叶えてくれるって言ったじゃないの!!」

黒猫弐「申し訳ありませんが、
    鏡の力でできることにも限度というものがあるんですよ」

静  「だったらもう何もいらない!
    希望がなくなった人生、生きててもしょうがないもの……」

黒猫弐「……息子さんの存在は、あなたにとって、希望でしたか?」

静  「当たり前よ!!」

黒猫弐「……」

静  「母に小言を言われても、
    幸雄の生活の為だから耐えてきたわ。
    人が嫌がる仕事でも引き受けて、
    無理を言う上司の機嫌をとりながら結果を出して、
    体調が悪くても、死にもの狂いで働いたわ。
    全部全部幸雄がいたから……!
    幸雄に不自由ない生活をさせてあげる為なら、
    どんなにきつくたって、何だって頑張れたの……!!
    私はずっと、幸雄の為だけに生きてきたのよ!」

黒猫弐「お母さん……」

静  「……え?」

黒猫弐「……いえ。
    お母さんというモノは、
    本当に、子供を不器用に愛するのだなあと思いまして」

静  「何それ馬鹿にしてるの!?」

黒猫弐「とんでもない。
    しかし、誰かの為だけに生きる、
    ……それは美徳のようで、実に醜いものですね」

静  「は?」

黒猫弐「自分の為にはできないことでも、
    誰かの為という大義名分があればできる。
    一見、よいことにも思えますが、そのできることには悪いことも含まれます」

静  「育児が悪いことだとでも言うつもり!?」

黒猫弐「誰もそんなこと言ってませんよ。
    落ち着いてください。
    あなたを否定するつもりで言っているわけではないんです。
    ただ、よく考えてみてください。
    それがなければ、死を考えてしまうようなものが、
    本当によいことなのでしょうか?
    誰かの為という言葉はあたたかく感じますが、結局はただの自己犠牲ですよね」

静  「自己犠牲だったら何なのよ。
    息子の為に生きてきたことに、後悔はないわ!!」

黒猫弐「うーん、頑固ですねぇ。
    息子さんの為に生きてきて……結局息子さんを喪っているというのに」

静  「……っ」

黒猫弐「ちなみに、矛盾していることには、気付いていらっしゃいますか?」

静  「……」

黒猫弐「……ま、いいでしょう。
    それを責めるつもりもありません。
    人間の思考に矛盾はつきものです。
    ははは、いやぁ、笑ってしまいますね」

静  「嫌な人、何がおかしいっていうの」

黒猫弐「その頑固さ、息子さんとそっくりですから」

静  「え……?
    あなた幸雄を知っているの!?」

黒猫弐「ええ、とてもよく知っていますよ」

静  「どうして?」

黒猫弐「……息子さんから、伝言を預かっているんです」

静  「伝言?」


(背を向けて指を鳴らすと、幸雄の声が響く)


幸雄 『お母さん、先に死んじゃってごめんなさい。
    いつも忙しいお母さんのことが、心配です。
    仕事、あんまり無理をしないでね。
    お母さん、ずっと大好きだよ』

静  「幸雄!!!!」


(黒猫、静の方を向く)


黒猫弐「……幸雄くんは、お母さんが大好きですよ」

静  「嘘……」

黒猫弐「信じられませんか?」

静  「……私こんな母親なのに?
    恨まれて当然なのに?
    母親失格でも……それでも幸雄は……?」

黒猫弐「それでも、幸雄くんは、お母さんが好き。
    大好きだとおっしゃっていたのは空耳なんかじゃありません」

静  「生きる理由になれなかったのに!?
    絶望させてしまったのに!?」

黒猫弐「ご家庭のことだけが理由ではなかったのでしょう。
    あなたに複合的な理由があったように、
    幸雄くんにも色々あったのでしょうね、きっと」

静  「……いろいろ……」

黒猫弐「幸雄くんにとって、誰かを憎むよりも、
    自分がいなくなる方が楽だったのではないでしょうか」

静  「……そんなことって……」

黒猫弐「ただ心残りは、大好きなお母さんのこと。
    だからあなたに伝えたかったのでしょう。
    遺書なんかではなく、自分の声で直接ね」

静  「……幸雄、ごめんね……だめなお母さんで、ごめん……!」

黒猫弐「自分の声を、残してほしい。これが幸雄くんの願いでした」

静  「幸雄は……死ぬことは決めていた上で、私の為に、そう願ったってこと?」

黒猫弐「はい」

静  「……」

黒猫弐「ああそうだ、悪く思わないでくださいね。
    黒猫に安易な死を願うのも、何か別の願いを望むのでも、
    どちらでも構わないんです。
    願いが叶えられた後、生きていくのも、自ら死を選ぶのも自由です。
    黒猫はそこまで干渉はできません。
    黒猫の仕事は、ただ条件が揃った人間の願いを叶えるだけ、ですので」

静  「……願い……」

黒猫弐「あなたのおっしゃった、息子さんとやり直したい、という願いは、
    申し訳ありませんが、叶えることはできません。
    他に、何か願いはございませんか?」

静  「また、声を聴けて……
    あの子の気持ちを聴けて……これ以上のことはないわ……」

黒猫弐「お喜びいただけて何よりです」

静  「…………今の声を……ずっと忘れたくない、なんて、
    そんな願いでも、いい?」

黒猫弐「ええ。問題ありません。
    それくらいでしたら、鏡の力で何とかなります。
    あなたの人生が終わるその時まで、
    たとえあなたの脳が病に侵されたとしても、
    幸雄くんの記憶と、今の声だけは、忘れないようにいたしましょう」

静  「ありがとう……」

黒猫弐「……あなたはまだ、死にたいと思っていますか?」

静  「……、たぶん、それはずっと消えないと思うわ」

黒猫弐「……」

静  「でも……幸雄が心配するから……幸雄の為に、生きていかなきゃ……」

黒猫弐「……では是非、そうなさってください」

静  「これも、自己犠牲かしら?」

黒猫弐「いいえ、きっと違うと思いますよ」

静  「……よかった。
    ……そういえば、ひとつ気になってたことがあるの」

黒猫弐「何でしょう?」

静  「私、鏡なんて持ってないんだけど、どうして黒猫の条件とやらが揃ったの?」

黒猫弐「ああ、すみません。ご説明してませんでしたね。
    ……この公園には、少し前まで池があったじゃないですか。
    あなたが、息子さんとここを訪れたあの冬の日、
    その池はどうなっていましたか?」

静  「凍ってた、けど」

黒猫弐「氷の表面のことを、氷面鏡というんです。
    確かに綺麗には映らないかもしれませんが、
    それでも長い時間、多くの人間の傍にあった分、蓄えた力が大きかったんですよ。
    息子さんのお宮参りだって、この先の神社に行かれたのでしょう?」

静  「お宮参り……そうね、寒いのに神社に行ったわ。
    ことあるごとに母はお参りに行ってたみたいね。
    何度も恩着せがましく言ってたわ……」

黒猫弐「とても信心深い方だったようですね。
    おばあさまのその祈りも、鏡の力として残っているんですよ」

静  「え……!?」

黒猫弐「娘さんであるあなたと、お孫さんである幸雄くんの健康と幸せを、
    いつも熱心に祈っておいででした。ついでですのでお見せしましょう」


(過去。神社にお参りしている靖子)


靖子 「神様、孫が運動会で一等賞をとりました。
    怪我もなく、頑張れました、守っていただいてありがとうございます。
    娘は仕事でしたが、孫の雄姿を話してやろうと思います。
    娘のことも孫のことも、これからも守ってやってください。
    お願いします……」

靖子 「神様、最近寒いですね。
    娘が風邪をひいたようで、風邪薬を飲んで仕事に行ったようなんです。
    あまり出来のいい方じゃないのに強情で。
    ひとつひとつやればいいのに、あれもこれもと頑張りすぎる。
    ほんっと困ってしまいます。
    身体を壊さないように、どうか守ってやってください。
    孫も風邪をひかないように、元気でいられますように……」


(過去終了)


静  「……あのくそばばあ……」(泣きながらつぶやくように)

黒猫弐「……どうしても、言葉だけではすれ違ってしまうものです。
    親子だと余計、そうなってしまうのかもしれません。
    言っても言わなくてもすれ違う。
    伝えるというのは、本当に難しいことなんです」

静  「でも今更……母のことを、赦すなんてできない……」

黒猫弐「そうでしょうね。
    簡単に割り切れるような感情なら、
    あなたもこんなに苦しみはしなかったでしょうから」

静  「……ずっと、憎んでいたんだもの……」

黒猫弐「……ええ」

静  「でも……。
    お彼岸に……線香の一本くらいはあげに行くわ……」

黒猫弐「……きっと、お喜びになりますよ」

静  「……だといいけど」

黒猫弐「これで、私の仕事は終わりましたので、お別れです」

静  「え? ……あ、……あの。黒猫さん」

黒猫弐「はい?」

静  「色々……ありがとう」

黒猫弐「…………どういたしまして。
    それでは、グッドラック。よい人生を」


(公園。夕焼け小焼けの鐘の音が鳴っている。ベンチに座っている静)


静  「(夢から覚めたかのように)っ……夢?
    …………なんて夢をみたのかしら……。ね、幸雄、……お母さん」


(歩き出す母親を物陰から見守る幸雄の更に背後から忍び寄る黒猫)


黒猫弐「……」

黒猫 「これでよかったんですか?」

黒猫弐「うわっ!」

黒猫 「ふふふ、すみません、驚かせてしまいましたか」

黒猫弐「黒猫さん!」

黒猫 「おやおや、今はあなたも黒猫なんですよ?」

黒猫弐「そ、そうですけど……」

黒猫 「黒猫の仕事も板についてきたようですね。
    あんな綺麗ごとをさも本当のように言うとは。
    さすがでしたよ」

黒猫弐「……僕が母に言ったことは、確かに100%本当じゃないです。
    でもだからといって、嘘というわけでもない。
    僕たちは、人間を導く黒猫。真実が必ずしも有効とは限らない。
    そうですよね?」

黒猫 「はい。導くことができれば、ぶっちゃけ何だっていいんです。
    嘘でも真実でも屁理屈でもね」

黒猫弐「……僕は、ちゃんと母を導けたでしょうか」

黒猫 「立派だったと思いますよ」

黒猫弐「……」

黒猫 「……少しは、人間を理解できましたか?」

黒猫弐「そうですね……。
    不完全で、不器用で、すれ違って、苦しんで。
    それでも人間は、懸命に生きる。
    愚かで、だからこそ愛おしい、小さな命」

黒猫 「……それがあなたの答えですか?」

黒猫弐「いいえ」

黒猫 「違うんですか?」

黒猫弐「……一言で言えるようなものではないんでしょう、人間って。
    今僕が感じたものが、全てじゃない。そう、思います」

黒猫 「なるほど」

黒猫弐「これからも、探していこうと思います。
    僕の、答えを。人間のそばで」

黒猫 「そうですか。
    ……それこそ、立派な答えであると思います。
    あなたは、人間を愛おしいと言いました。
    では……幸せとは何か。その答えも、見つかったのでは?」

黒猫弐「……さあ、どうでしょう」

黒猫 「……。おばあさまの願いが叶うのも、もうすぐかもしれませんね」

黒猫弐「……」

黒猫 「なぜそんな浮かない顔をしているんです?」

黒猫弐「……痛いんです」

黒猫 「どこか、怪我でも?」

黒猫弐「いえ。でも、胸が苦しくて」

黒猫 「ほう。なぜ苦しいのでしょうねえ?」

黒猫弐「……わかりません」

黒猫 「そうですか。困りましたね」

黒猫弐「……この胸の痛みは、理由がわかれば消えるものですか?」

黒猫 「さあ……それは私にもわかりません。
    でも今は、あるがままの痛みを受け入れればいいと思いますよ」


(遠くを見つめる幸雄。黒猫そっと退場。幸雄、つぶやく)


幸雄 「お母さん。
    また会えて、嬉しかったよ。
    大好きって伝えることができて……よかった。
    お母さんは生きていてね。いつまでも元気で。
    ……もう二度と、僕の前なんかに、来ちゃだめだよ」

幸雄 「さよなら。……ママ」





【第二幕 了】
【終幕】



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