青い日記帳

作:早川ふう / 所要時間 10分

利用規約はこちら。少しでも楽しんでいただければ幸いです。2020.08.31.


人魚姫が王子様と結ばれることはない。
彼の命を助けたのが人魚姫だったとしても、
彼の心を癒したのは人魚姫ではなかったのだから。

どれだけ恋焦がれても、住む世界が違えば、この想いが叶うことはない。
誰に言われるまでもなく、それはわかっていたから、
冷たく暗い海からそっと、あなたを見つめることしかできなかった。

彼の目に留まれるなら、魔女の薬を飲むことだって厭わない。
焼けてしまった喉では、愛を囁くことはできない。
彼の目に留まっても、今以上には決してなれない。
それでも。
たとえ彼と話せないとしても、
ひとときでも、目を合わせることができるなら、
一歩踏み出すたびに、身を引き裂く痛みを感じる
造り物の脚でも、優雅に、歩いてみせるわ。
努力でどうにかできるのなら、
私はいくらだってしてみせるから。

彼と笑いあえたなら
彼の隣を歩くのが私であったなら
私はどんなに幸せでしょうか。
彼の唯一になれないのなら、
泡になって消えてしまいたい。
そんな気持ちも、わからなくはないの。
でも、消えたいとはどうしても思えない。
努力をしてみせる、と言ったそばから、
欲望は溢れ出てしまうのね。

私は人魚姫にはなれないのでしょう。
でも魔女はきっと、努力する私を見つけてくれるはず。
弱った私に魔法をかけて、かぼちゃの馬車に乗せてくれるの。
そして私は、魔女の期待に応えるのよ。
慣れないドレスのコルセットにも耐えて、微笑むわ。
足元が覚束ない高いヒールのガラスの靴でも、決して転んだりしない。

だからどうか、私を見つけて。
だからどうか、私を選んで。



……反吐が出るとはこういうこと。
自己嫌悪で、眩暈がした。
引っ越しの準備をしていたら、
学生時代の日記帳が出てきた。
懐かしくなって開いてみれば、
ポエムという名の黒歴史がずらり。
過去の私は、これほどまでに幼かったのかと笑ってしまう。
御伽噺に救いを求める年齢でもないのにね。
それだけ、恋をしている自分に酔っていた。
いや、それは大人になった今だから、言えることなのかもしれない。
たとえそれが拙い想いであろうとも、
過去の私は、間違いなく真剣に恋をしていた。

大体今の私だって、きっとそんなに成長していない。
恋をすれば周囲が見えなくなるし、
その人以外はどうでもよくなってしまう。
気持ちが通じ合うのは一瞬。
ふとしたことで喧嘩してしまうし、
理不尽なことを言い合ってしまうこともある。
大人になればなるほど、素直になれなくなっていくし、
自らを取り巻く環境が、その人だけを大事だとは言えなくしていく。
それは、大人にとっては当たり前のことなのだろう。
幸せを大事にすることは、とても難しいのだと
身に沁みたのは一度や二度ではない。

子供の頃は、ただ純粋に人を好きになっていたということだろうか。
打算があっても、それは子供特有のもの。
背が高いから、足が速いから、
そんな可愛らしいものだったから
恋は輝いていたのではないだろうか。

大人になればなるほど、簡単に誰かと付き合えるようになった。
でも、簡単に人を好きにはなれなくなった。
大人になればなるほど、簡単にときめかなくなった。
でも、簡単に人のステータスが頭に入るようになった。

相手との距離感が難しい。
相手を傷つけるようにもなったし、
自分も傷つくようになった。
身体を重ねても、心は遠い。
どうすればいいのかわからなかった。
それだけ深く相手と関わっているのだ、と納得しようとしても
得られる幸せが、昔の方が大きかったように思えて、
恋なんてものは、自分には向いていないのだ、と結論づけた。



……ほら、支離滅裂。
考えるという行動だけをして、
何も考えられてはいない。
これは、私の悪い癖だ。
ポエムの形式ではないだけで、内容は昔から変わらないじゃないか。
相手との距離を縮めることもせず、ただ、王子様の迎えを待つか、
自己分析という建前で、過度に自分を卑下しているかの違いだ。
理論的に考えているふりをして、
何も得られない議論に悩むということだけが目的で。
「恋をした」という現実から、逃げている。
さながらこの日記帳は、逃避行を描いた出来の悪い冒険譚か。



こんな臆病な私が、青春時代のように、また人を好きになることができたなんて。
それは奇蹟に近いだろう。
今は、この現実を受け止めるだけでいい。

ああ、なんてくすぐったいんだろう。
ああ、なんてあったかいんだろう。
口に運んだブラックコーヒーすら甘ったるい。

私は今、恋をしています。





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