3月14日

作:早川ふう / 所要時間 10分

利用規約はこちら。少しでも楽しんでいただければ幸いです。2024.03.13.


頭痛がする。
このまま視界が歪んで、次の瞬間には異世界に転移したりしないだろうか。
そんな現実逃避に想いを馳せる。
お待ちしていました、勇者様。
そんな言葉で迎えられて、
鑑定されて、
自分のステータスを確認するのだ。
自分のジョブは何だろうか。
どんなスキルが使えるのだろうか。
召喚された異世界の文明はどの程度だろうか。
料理の水準もさることながら、風呂やトイレも気になるところだ。
日本の生活レベルに慣れた自分には、きつい世界の可能性も高い。
悩むところだ。
やはり、異世界への憧れは、ないものねだりなのだろう。
頭痛は治まる気配を知らず、
仕方がないので薬を飲んだ。
しばらくは、おとなしくしていよう。



そういえば、と、先日実家へ帰った時のことを思い出した。
母親が、ご飯を食べていきなさい、と言うので、
仕方なく食卓に座ると、手作りのポテトサラダが目に留まる。
玉ねぎ、きゅうり、にんじん、りんごの入ったポテトサラダは
母親の作る料理の中でトップ3に入るほど、嫌いなものだ。
自分はにんじんが大の苦手で、
今もできるだけ口にしないように生活をしているというのに。
そして、りんご。これもだめだ。
酢豚の中のパイナップルのごとく、
ポテトサラダの中のりんごは許せない。
幼い頃は普通に食べていたような気もするが、
大人になった今となっては、どうしても身体が受け付けないのだ。
それを何度も伝えてはいるのだが、
母親というものは、ある程度子供が大きくなると、
食の好みを覚えないようにできているらしい。
と、主語を大きくしてみたが、
きっと世間の大多数のお母様方は、そんなことはないのだろうな。
うちの母親が特別なだけだ。そうに違いない。ああ羨ましい。
その日はポテトサラダに箸をつけずに食事を終わらせたのだが、
ポテトサラダ自体が嫌いなわけではないのだ。
むしろ好物ともいえる。
ポテトサラダ、無性に食べたくなってきたではないか。
ちょうど新じゃがの季節だ、皮むきの手間も少ない。
ということはだ。
これは神様が食べろと言っている。そうに違いない。
きゅうりにハム、ゆでたまごは思い切って二個。
ポテトサラダはこうでなくちゃ。
たまに明太子を入れることもあるけれど、
今日はシンプルにいきたい気分だ。
マヨネーズはたっぷり。
仕上げにブラックペッパーをきかせるのがいい。
そしてポテトサラダをつまみに、ちょいとお酒でも飲んでしまおう。
思わず笑みがこぼれた。
そうと決まれば、帰りにスーパーに寄って、足りない材料を買わなければ。
俄然、やる気が出てきたところで、頭痛が治まったのにも気がついた。
よし。さあ、仕事の続きだ。



数時間前のやる気はすっかりなくなり、今、とてもいらいらしている。
せっかく今日はポテトサラダの気分だったのに、トラブルで残業になってしまった。
今から急いで帰っても、スーパーの営業時間には間に合わない。
手軽に買えるコンビニのポテトサラダでは、この渇きは癒せないというのに。
ああ、どうしてうまくいかないのだろうか。
また頭が痛くなりそうだ。
眉間にしわが寄る。
今日はついていない日だ。
足取り重く歩いていると、ポケットが震え、通知音が聞こえた。
スマホには『ホワイトデー、覚えてる?』とメッセージが表示されている。
そうだった、今日はホワイトデーだっけ。
今年のバレンタインも例に漏れず、
甘いものが好きな恋人が食べたいと言った店のショコラを購入して渡したのだ。
それと一緒に、おそろいのキーケースも。
そのお返しに、今日恋人は、合鍵で我が家に入り、掃除や洗濯をして、
買い物に行って、好物を作って冷蔵庫に入れておいたという。
ホワイトデーの為に、こんなにも尽くしてくれる、
恋人には感謝してもしきれない。
自分はこれ以上の愛情を、何かを返せているだろうか。
恋人は自分に満足してくれているだろうか。
自分を大事にしてもらうたびに、
大事にしようと思える相手。
こんな人に出会えるのは、なかなかないとわかっている。
ああ、そうか、ホワイトデーだったか。
だから神様はポテトサラダを別の日に設定したんだなあ。
これから夜勤に行くという恋人に会えないのは残念だけれど、
家に帰れば、恋人の気持ちのこもった料理が待っている。
だったら今日は、いい日じゃないか。
気をつけて帰るとしよう。
このまま帰り道で学生とぶつかった拍子にでも、異世界に飛ばされてはたまらない。
どんなジョブもスキルも魔法もギフトも、
フェンリルや精霊やドラゴンだって、恋人にはかなわないのだから。



浮かれ気分で帰宅すると、玄関からして小奇麗になっていて、
確かに恋人が来てくれていたのがわかる。
手を洗えば、水回りが光っているし、
冷蔵庫を開ければ、好物の数々。
大変だっただろうに。
何時間かけてやってくれたのだろうか。
と、考えつつ取った一つのタッパーには、ポテトサラダが入っていて。
きゅうりに、ハム、ゆでたまごが入ったそれを見たら、何故か涙があふれてきた。
自分の好みを覚えてくれるというのは、当たり前なんかじゃない。
ありがたいことだと身に染みてわかっているから。
涙を拭って、スマホを取り出す。
『今帰ってきたよ、ありがとう』と送信したメッセージに既読はつかない。
恋人は今頃仕事をしているはずだ。
嬉しい気持ちを精一杯メッセージで伝えよう。
今度会った時には直接言葉でも伝えよう。
幸せだよ。
出会ってくれてありがとう。
付き合ってくれてありがとう。
一緒にいてくれてありがとう。
たくさんの感謝を伝えよう。
自分は決して気の利いた恋人ではないけれど、
それでも、精一杯、この想いを伝えよう。
ああ、なんて美味しいんだろう。
お酒もすすんでしまうじゃないか。
今日はとてもいい日だったなあ。
こんな日なら、言ってもいいんじゃないだろうか。
『これからもずっと、一緒にいてくれませんか』
送信ボタンを押しかけて、メッセージを消去した。
これは、恋人の目を見て直接言わなきゃいけない台詞だろう。
次に会う日が楽しみだ。
願わくばそれまでに、異世界に転移したりなんかしませんように。





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